今年も夏の大会が始まった。筆者が京都府の予選に出場した昭和44年(1969年)だった。前年の秋に硬式野球部が創部され、翌年の初出場だった。
開会式の行進はよく覚えていない。試合の経過は、明確に記憶しているが、なにせ思いもかけず7回コールド勝ちになり、校旗の掲揚が間に合わないというハプニングだった。
相手の鴨沂高校には申し訳なかったが、翌日の新聞に初出場の高校が初陣を飾ったということで、大きく取り上げてもらった。
その創部の物語には、長い長いストーリーがあるが、学校、生徒、父兄、OBあげての協力があり、ようやく硬式野球部の創部にこぎつけた。
秋に創部したが、なにせ歴史のない学校だから練習試合の相手にもこと欠いた。監督のつてで頼み込んで練習試合をさせてもらった。名門校相手では、一軍とやってもらえず、二軍との練習試合もあった。
しかし、春の大会では、初の公式戦だったが、3つ勝ちあがり名門の西京高校と2-4という接戦をできるまでになった。
それで自信をつけての初出場だった。
当時、キャプテンをさせていただき、その経験は何ものにも変えがたく、いまでも心のよりどころになっている。
なので、この甲子園の大会が始まると、血が騒ぐ。
開会式の行進はよく覚えていない。試合の経過は、明確に記憶しているが、なにせ思いもかけず7回コールド勝ちになり、校旗の掲揚が間に合わないというハプニングだった。
相手の鴨沂高校には申し訳なかったが、翌日の新聞に初出場の高校が初陣を飾ったということで、大きく取り上げてもらった。
その創部の物語には、長い長いストーリーがあるが、学校、生徒、父兄、OBあげての協力があり、ようやく硬式野球部の創部にこぎつけた。
秋に創部したが、なにせ歴史のない学校だから練習試合の相手にもこと欠いた。監督のつてで頼み込んで練習試合をさせてもらった。名門校相手では、一軍とやってもらえず、二軍との練習試合もあった。
しかし、春の大会では、初の公式戦だったが、3つ勝ちあがり名門の西京高校と2-4という接戦をできるまでになった。
それで自信をつけての初出場だった。
当時、キャプテンをさせていただき、その経験は何ものにも変えがたく、いまでも心のよりどころになっている。
なので、この甲子園の大会が始まると、血が騒ぐ。